小 袖
- nkt-haku
- 2023年4月19日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年7月22日

滋賀県彦根市所蔵「彦根屏風」

この写真二葉は、中世から江戸初期の風俗を描いたとされる屏風絵で、何れ共に国宝であるが、Wikipedia経由で引用した。
ここには、小袖姿の人々が実に大らかに生き生きと、舞っている。遊んでいる。
異性装と思しき姿も垣間見える。羨ましいほどの、奔放でのびやかな空気が満ち溢れていて、現代よりも余程「自由」な時代だった様にも思えるのだ。
それは、明治以降に西洋から学んだ概念としての自由ではなく、自然の四季折々に根ざした独自の解放感としての自由の様なものというか・・・・・後の世の我々を惹きつける。
ふと思う、「能・茶道」の誕生を支えたのはこの種のエネルギーなのではないだろうか?
そこに舞う小袖は、装束下着だったものが室町中期あたりから表着となり、それが着物の原型であると言われているが、現代の、思い込んだ決まり事に拘束された着物姿とはあまりにも「その様」が違いすぎる。
例えば、
そこに「正坐」をしている姿は一切登場しない。様々な自由な坐し方が描かれている。
正坐は「足が痺れる」という負荷がかかり、決して楽な寛ぎのさまではないことは明らかで、しかも畳ではなく板張りが主の時代となれば尚更である。この一種の拘束感は、現代にまで日本人にかなり根深く突き刺さっているのでは無いだろうか?
日本人にとっての正坐・・・・その辺のことは、
松岡正剛氏が「千夜千冊」の中で、丁宗鐵著「正座と日本人」を起点に言及しておられるのでリンクを貼った。
そして、目を惹くのは、小袖衣装の「たっぷり感」である。
そのニュアンスを支える衣服の形としては、開口部が大きく外気が素肌を通り抜ける構造であり、袖口首下にボタンを配する洋服とは対照的である。ここは多湿なアジアモンスーン圏の出来事なのだ。
更に具体として・・・
縦方向の「身丈」。小袖は対丈であるので、今の着物との違いとして「おはしょり」の有無が先ず指摘されるが、
実は、緯方向の「身巾」。
小袖と着物の「身巾」にも大きな違いがあるのだ。
裾の総身巾(上前と下前)でいうと、
現代の男性着物標準寸法(身長167cm)では、146cm前後であるのに対し、
小袖は、2m前後はあるのだ。ほぼ50cm前後の差があるのだが、前身巾と後身巾が1尺程の同寸で、衽巾も2寸程広く、着装イメージが全く違うのだ。
つまり、男女同じく拡がった裾のゆとりは、
立膝あり、胡座あり・・・様々な坐り方をしても裾が開(はだ)けないように対応しているのだ。
更にもう一項目、小袖に用いられた生地(絹織物)に関して付け加えると・・・・
前述のたっぷりとした身巾を支える為には、
垂れ過ぎずに、緯方向への程の良い張りが欲しかったと推測されるのだが、
まさしく、この小袖に向けたとしか思えない、日本独自の絹織物が生まれているのだ。
それは、「練貫(ねりぬき)」と呼ばれているものであるが、実に理に適った織設計が成されている。
そして、その絹織物を舞台として登場したのが「辻が花」なのであった。

奈辺のこと、絹織物・絹素材になると、当所が今後展開する製作内容などとも深く関わってくるので、この先は次の機会に改めて焦点を絞ってみたいと思う。
話を戻そう。
実は、
「花下遊楽図屏風」のみならず、「彦根屏風」の方も狩野長信(1577~1654)筆なのでは?との説がある。
仮にそうすると時代背景としては、豊臣秀吉から徳川家康〜家光まで至る。
登場する「かぶき者」の在らぬ方への眼差しは、長きに亘った身も蓋もない戦乱の世に翻弄され、そこ生き抜いた人々の心の奥底を密かに象徴しているのかもしれない。
以降、
小袖の素材は、堺にもたらされた「縮緬(クレープ)」に取って代わり、身巾は狭くなり帯巾は広くなっ身体を締め付け身丈は長くなってお引摺りとなり、
いよいよ、「正坐」を求められる江戸時代が始まる。
桜花の下で舞い、遊里に遊ぶこのいっ時は、
その束の間、「日本」と言う島国で醸成された文化文明の歴史的ピーク示しているのかも知れない。
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